中川和郎 三島市藤代町7-2 当時の住所 三島市宮町3280(現 三島市大宮町三丁目)
動員先 富士製作所 施盤工(工員の付き人)六尺型 |
T.
動員で三島地区を中心とした1クラスが3年になると同時に富士製作所に通っていた。8月15、16日と、もしかすると三嶋大社の祭礼を意識しての事だったかも知れないが、連休とされていた。沼津の海岸は遊泳禁止だったので16日に伊豆多賀へ行こうと計画していた。困難な乗車券の手配もすんで、15日細かい打ち合わせのため、当時よく集まっていた、父親が三島の野重二連隊の副官だった山田一世の家に5、6人で昼前からいた。集まってすぐ山田が「どうも、コレらしいぞ」と両手をあげて
言った。父親が明け方近く帰って来、母親に話していたという。そこで正午にある重大放送を聞こうということになった。山田の家にはラジオが2台あったと思う。(6畳間だったと思う。)ラジオの前に正座して玉音なるあの放送を聞いた。 |
U.
初めて耳にする玉音は時折まじるガーガーという雑音と、抑揚のないカン高い声でのむずかしい言葉の連続で、ひどく聞きとりにくかった。こんな時こそ泣きながら聞くべきではないかと思ったのは確かだが、涙は全く出なかった。しっとりと水を含んだ海綿が一瞬にしてカサカサにかわき切ってしまった様な胸の中だった。〈「忍びがたきを忍びーって言ったよなあー」〉誰かが言った。「もっと頑張れじゃあなくて、負けたんだよ、本当に」。しばしの沈黙の後で、相良英一が言った。「日本が負けたからって、明日俺達が海へ行っちゃあ駄目かなあー」そのポツリと言った言葉で吾にかえった気がしたことは鮮明に記憶にある。力が抜けてなんの考えも浮かばなかったと言うのが本当の気持ちだったろうと今、思いかえす。ポカンとしていただけだ。
翌日凪いで曇った海、終った筈なのにそこで鳴りひびいた空襲警報のサイレン。はしゃぐ気持になれなかった重苦しく淋しい海水浴。くやしいとか、残念だったとかの思いはなかった様に思う。なにしろ15歳の少年に全てが分かる筈がなかったのだから―。あの時の想像を絶する初体験の気持ち、感じを記そうとすると、多分、後から思いついた嘘の記憶、自分の中で造りあげた記憶でしかない様な気がしてならない。不悪。 |